小学生・中学生は年齢の分母がまだまだ小さい
例えば小学4年生の一年は1/10=0.1、40歳になれば1/40=0.025
この通り明らかに小学生の1年間はウェイトが高いのである。
そこに来て成長にも早生・奥手と個人差があるのでそこには大人の社会以上のハンデを感じることが多いんですよね
それは大人になっても同じなんです
同じ基準で比べることなんか所詮無理なことなんです
でもね、コンプレックスを感じられているということはその上を見ているからなんです
全然気にならない人はそのことにすら気が付いていないということだと思います
自分の年齢だとこのくらい出来てなくちゃいけないとか、周りと比べてみて自分は誰々に劣っているとか、いったいどこを目標として何を比べているんだろう?
自分が感じたコンプレックス、実は敵わないなと思ってた人も同じことを感じていたり、話してみたら意外と気が合っちゃったりと・・・
その時々の目標に早く達しちゃった人は、その後の目標が見つからずに自分を見失ってしまったなんて話もよく聞く話です
其々の人が様々な考えを持ち、自分なりの尺度で進んでいけばいい、自分なりの目標でも必ずそれが自信となりその後にプラスとなっていくはずです
時には開き直りも必要です。コンプレックスと付き合いながらゆっくりと人生楽しんでいきましょう
カテゴリー: つぶやき
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コンプレックスを楽しもう
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ふわりと浮上
普段何気なく人と話していて自分の変化に気づいたことはありますか?
悩んでいる人に相談を受けたり、黙って話を聞いてあげたりと・・・
とかく自分と比べてしまったり、自分の経験に当てはめてしまったりしがちですが自分では適切なアドバイスをしてあげれていないと思いながらも、相手の方は十分気持ちが楽になっていることがよくあるんです。
それは貴方自身がまさに当事者の時、悩み、よく考え、苦しんできたからなのです
自分では気づかないうちに知らず知らずに経験値がアップしていたんですね
今はつらくても、自分がふわりと浮き上がれた感じを覚える日が必ずやってきますよ
それはね・・自分でそっと感じていてくれればいいんです。
泉谷しげるの春夏秋冬の歌詞にもこんな一節があります。
「隣を横目で覗き自分の道を確かめる、また一つずるくなった当分照れ笑いが続く」
この一節は4番の歌詞で、10代の頃にはこの詩に気づいていませんでした。
悩み続けて苦しかった20代の終わり頃に初めて知って以来、大切な曲の一つになりました
また、この歌はさらにこう綴られています。
「今日ですべてが終わるさ」
「今日ですべてが変わる」
「今日ですべてが報われる」
「今日ですべてが始まるさ」
機会があればぜひ一度フルコーラスで聴いてみてください・・・・・・・・・・・・・・。 -
絶望名人カフカの不思議な魅力
若者の間で、フランツ・カフカがジワリと人気なんだとかっていう話を聞いたことがあります。
「えー、そうなの!?」と私はちょっと驚いたのですが、若い人も疲れているということなのでしょうか。
フランツ・カフカは、ユダヤ人の作家で、有名な作品に『変身』というのがあります。
以前に読んだことがありますが、ものすごいへんてこりんな話です。
主人公がある朝目覚めると、突然巨大な虫になっているのです。それなのに、周りのありふれた日常は淡々と営まれていくというような話です。
なんともわけのわからない、絶望的なストーリーです。
今回は、そんなカフカの名言集を紹介したいと思います。
『絶望名人カフカの人生論』編訳:頭木弘樹 飛鳥新社
カフカの言葉は、本当にネガティブなものばかりなのですが、心がつらいときに本当に必要なのはつらい気持ちに寄り添ってくれるような言葉ではないか、と編訳者の頭木さんは言っています。カフカは絶望の名人で、あまりにネガティブすぎてかえって笑えてくるというのです。しかしその絶望の言葉には、不思議な魅力と力があり、読んでいてつられて落ち込むというよりは、かえって力がわいてくるのだそうです。
この本に載っているカフカの名言をいくつか紹介してみます。

なんと、これはカフカが結婚を申し込んでいた女性に向けて書いたラブレターの一節なんだそうです。普通、こんなこと書きませんよね。でも相手の女性は、カフカと婚約をすることになるのだそうです。実際に結婚はしなかったのですが。

これも、同じ女性に向けた手紙の中の一節です。
ベッドの心地よさよりも、落ちる心配のない硬い床のほうがカフカにとっては良いのでしょうか・・・
でも確かに、こうして読んでみると、共感できるような気がしてきます。
同じ頭木さんの編訳でもう一冊、ポジティブなゲーテとネガティブなカフカを対比させている本があります。
『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』 草思社文庫
カフカとゲーテ、どちらに共感できるでしょうか?
興味があったら、ぜひ読んでみてください。
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自律神経を整えましょう!
不規則な生活をしたり、ストレスがたまったり、あるいは季節の変わり目とか、なんだか調子がわるいなあと感じることがありますよね。
すべてではありませんが、自律神経の乱れかもしれません。
自律神経は主に内蔵をつかさどる神経です。
この神経が厄介なのは、運動神経みたいに、自分の意志で動かすことができないということです。
例えば、胃を働かせてみようと思ってもできないし、汗をかきたくないから止めようなんて思ってもできませんよね。
これらは自律神経によって制御されています。
自律神経には交感神経と副交感神経があり、それぞれアクセルとブレーキみたいな役割を果たしているのだそうです。
交感神経は緊張、副交感神経はリラックス、それが場面に応じてスムーズに切り替えられることが大切なのです。それで身体のバランスが保たれるのですね。
しかし、不規則な生活をしていたりストレスなんかがたまると、この切り替えがうまくいかなくなるわけです。
自律神経のバランスが乱れると、本当に様々な症状が出ます。
身体中を支配しているのですね。
頭痛、めまい、発汗、だるさ、胃腸症状などをはじめとして、のどが詰まったような感じがするとか、なかには、皮膚の感覚がなくなる、などといった不思議な症状を訴える方もきいたことがあります。
こうなると、本当に何にもしたくなくなってしまいますよね。
自律神経を整えるために有効とされていることはいくつかあります。
・なるべく決まった時間に起きて、朝日を浴びること
・朝ご飯をきちんと食べること
・適度な運動をすること
・ぬるめのお風呂にゆっくりつかること
・こまめに気分転換して、ストレスをためないこと
などなどです。
こうしたことは、日ごろから気を付けて習慣にできると良いのですが、なかなか思うようにいきませんよね。
健康は大切ですよね。
身体が整うだけで、はじめの一歩が踏み出せるようになる人も結構いるように思います。
こぶし瑞江では、ストレッチ体操やウオーキングなどをプログラムに取り入れています。
一緒にやってみませんか?
ちなみに、自律神経を整えるためにはバランスの良い食事が良いのですが、手っ取り早くて一番よい食べ物はバナナ🍌だそうです。
嫌いでなければ、朝食やおやつにいかがでしょうか?
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海の魚が生きる場所
「海の魚はみんな、自分が息をしやすい場所を選んで暮らしている。我々人間も、息のしやすい場所を選んで暮らしていけばいい。」
昨年、某所で支援実習を行った際に出会った方が、こんなようなことを言っていたなあと、最近なぜか思い出します。
深いところが好きな魚もいれば、浅いところが好きな魚もいる。あったかい海が暮らしやすい魚もいれば、寒い海でないと弱ってしまう魚もいる。
魚は、誰に気を遣うこともなく、自分の好きな海域で、心地よい水深を選んで暮らしています。
でも人間というものは、息のしにくい場所で必死に頑張って弱ってしまったりする。楽な場所に移動すればいいのに、周りに気を使ってみたり、あるいはそこで頑張ることにこだわってみたり、そこじゃなきゃダだめなような気がしてみたり。
人間は本当に面倒くさいですね。
けれども、結局、選ぶのは自分なんですよね。
息のしやすい場所に移るもよし、いや、疲れてしまうことが分かっていても、そこにいたいならそれもよし。
ただ、私の経験のお話をすると、一生懸命努力しても全く評価されずにかなり落ち込んでいたのに、職場を変えたとたん評価してもらえたということがあります。
私のやっていること自体は何一つ変わらないのに、です。
なぜでしょうか?
職場の求めるものと、自分の持っているものが合致したということなのかもしれません。
でも、不思議ですよね。同じ職種ですし、やっていることは変わらないのに。
自分の息のしやすい場所っていうことなのかなと思います。
そういう場所で働いていると、幸せな気持ちになります。
たとえそれが一流企業でなくても、やりたい業務内容と少し違っていたとしても、自分が評価してもらえると、うれしい気持ちになります。
そして、心がとても楽になります。 選ぶのは自分ですが、どうせなら心穏やかに、海の魚みたいに自然体で過ごしたいですよね。
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相田みつを美術館
相田みつをは有名な書家で、たくさんの名言を、独特の書体で表現しています。
私の旦那様は相田みつをが大好きで、うちのトイレには、相田みつをの名言の額がずっとかけてあります。
東京駅に、相田みつを美術館というのがあるのですが、先日ついにそこに連れていかれました。
私は書道とか、名言とか、あまり興味がなかったので誘われてもずっと断り続けていたのですが。
でも、思ったより良くて、いろんな言葉が心にしみました❤
今日は、勝手に、私の心にしみた名言ランキングトップ3を紹介したいと思います。

多少変てこりんでもいいんですよね。自分の道。
自分のものであることが大切です。
せっかく生まれてきたのだから。

人は苦しい時を過ごすことによって、自分を確固たるものに育てていくのですね。 焦らず、自分と向き合う時間も大切なのかもしれません。

美術館でこれを見た時、これと同じようなことを子どもが言っていたのを思い出しました。私の子どもは、小さなころ大病を患って大変な目にあいました。ずっとそのことが尾を引いて、楽しそうにしている人を見ると、うらやましいな、自分とは違うなと思っていたそうです。でも、大きくなって、いろんな人と話をしてみると、みんな人知れず苦しいこともちゃんと背負っていて、自分だけじゃないんだと嬉しくなったそうです。
私もそれを聞いてうれしくなりました。
そうですよね、楽しいだけの人なんて、いません。
これ以外にも、美術館には相田みつをの名言がいっぱい展示されています。
自分に合った名言を探してみるのもいいかもしれませんね。 -
福祉文化
私の子どもは、「福祉」という言葉が嫌いだと言います。
胡散臭くて偽善的、そんなイメージのようです。
そんなふうに感じる年頃なのか、いやはやひねくれ者なのか。
でも同じように思っている人も少なくないのかもしれませんね。
以前、高齢者の施設で働いたときに、「福祉の世話にはなりたくない!」と言っている方がいたのを思い出します。
「福祉」って、本当はどういうものなんでしょうか。
実は私も、曖昧にしか把握していませんでしたが、結構奥の深いもののようです。
「福祉」という言葉の本来の意味は“幸福”とか“幸せ”ということだそうです。
辞書を引くと、本当にそう書いてあります。
では、人の幸せってなんだろう?
アブラハム・マズローはこう言っているそうです。
「人間の真の幸せを考えた時に、究極的には自己実現である」
誰のものでもない、誰とも比べられない、自分の価値観が達成される感じでしょうか。
また、社会福祉学者の一番ケ瀬康子は、「福祉文化」という言葉をよく用いています。
“文化(culture)”のラテン語の語源は、“耕す”という意味だそうです。
したがって福祉文化とは、自己実現の為に環境に働きかけていくこと、自己実現のための土壌を整えていくありさま、といったところでしょうか。
100人いれば100個の固有の土壌があって、育つ作物も皆違います。
でも、隣の土地に人手が足りなければ、耕すのを手伝うのは自然なことですよね。
こうとらえれば、福祉文化はすべての人のためのものです。
僕という人間
僕は僕に「障害」があると
思っていなかった
僕は僕が生きにくい世の中に
障害があると思っていた
でも、人は僕のことを
「障害」のある人と言う
僕は僕自身だけれど
「障害」ではない
一番ケ瀬康子は著書の中でこの詩を紹介し、こう述べています。
「1人の人間が幸福を求め自己実現をめざしても、それが社会によって妨げられているところに問題がある」
こぶし瑞江も福祉事業所です。
皆さんの自己実現の土壌を、一緒に耕していく場所です。
ぜひぜひ一緒に、耕してはみませんか?
参考文献:一番ケ瀬康子編 『福祉文化論』、1997、有斐閣ブックス
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冷蔵庫マザー
子育てって大変ですよね。
世の中で子育てほど大変な仕事はないんじゃないかと思ってしまいます。
まあ、私は世の中のすべての仕事を経験したわけではないので、軽はずみにそんなことを言ってはいけないのでしょうが。
でも、一人の人間をこの世に存在させるってすごいことですよね。
私も、その重圧みたいなものをお腹の中にいるときからひしひしと感じました。
本当に人間が入っているんだろうか、なんて不安に思ったりもしました。
ところで、「冷蔵庫マザー(refrigerator mother)」という言葉を聞いたことがありますか?
文字の通り、冷蔵庫のような冷たいお母さんということです。
信じられないことに、1940年代から20年間ほどもの間、自閉症(自閉スペクトラム)の原因は、この「冷蔵庫マザー」であるとされてきたのです。
レオ・カナーという人が、考え出した「冷蔵庫マザー理論」です。
自閉症は環境要因によって発症するもので、それは、感情的にとても冷たく、愛情のない母親の育て方のせいであるとしたのです。
とんでもないですよね。
この理論によって、自閉症の子どもをもつお母さんは自分を責め、どれほどつらい思いをしたでしょう。
どんなお母さんだって、子育ては必死です。
子どもは自分の分身ですからね。なんでも自分のせいだと考えてしまいがちです。
それなのに、世の中がみんなして「母親のせいだ!」と責めたてるわけですから。
ほんとに、こんなこと言ったカナーさんに土下座して謝ってほしいですよね。
自閉スペクトラムは、お母さんの育て方のせいではありません。
まだまだ分からないこともたくさんあるようですが、生まれつきの脳の機能の特徴です。
今はそれがはっきりとわかっています。
自閉症であろうとなかろうと、子育てのお母さんは本当に頑張っています。
だから胸を張っていきましょう。
子育てってひとりひとりちがうし、だいたい、子育てのリハーサルなんてできないのですから。 ぶっつけ本番体当たり、体張って頑張ってるお母さんに、皆さん、エールを送りましょうね。
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我が家にテレビがやってくる(平成バージョン)
「すべて日本国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(日本国憲法25条第一項)・・・
20年以上前の話になるのだが、当時僕の部屋にはテレビがなかった。別にテレビを買うお金がなかったというより、部屋が単純に狭かったのと、音楽やラジオを流しながら本を読むほうが寛げたからなのだ。
だが、親しい友人に対しては別として、「うちテレビないんだよね・・・」と軽く口にすることがなんとなくはばかられて、時折テレビがまるであるような感じで相手に会話を合わせていた。確かワールドカップの日韓大会の日本VSベルギー戦の翌日だったと思う。職場でサッカーの話になったときだ「観た昨日の試合?」、ときかれて、つい「もちろん!聴いてましたよ」とこたえてしまい、相手の反応が「???聴いてた」ってどういうことみたいになってしまったのだ。
ぼくはラジオで試合を聴いていたので、試合の内容自体はしっかりわかっていたのだが、映像というかゴールシーンは欠片もみていなかったのだから、やっぱり、サッカー中継って画がないと話を合わせるのは厳しいかもしれないなと感じたのは確かである。
しかし、その後も「まあ、テレビがなくても別になんとかなってるからな・・・」という理由でテレビを買う機会がなかなか訪れない。
人事異動で営業の現場に出ることになったときのことだ。ある先輩と同行することになった。昼食のとき、たまたま、ドラマの話になり、先輩が山崎豊子さん原作の「白い巨塔」が面白いと力説し始めた。テレビのない僕はもちろん観ていないのだが、原作を読んでいたので何とか話を合わせることはできたのだ。が、しかし
「やっぱりさ、役者がいいだろう。財前役だよ。財前・・・」
「あー、そうですね、田宮二郎でしょう。迫真の演技ですよね」
「田宮二郎・・・唐沢だよ、唐沢寿明。おまえいつの時代の話をしてるんだよ?」
「里見役は誰か知ってるよな」
「・・・山本・・」
「ばかやろう・・・ちげーよ。江口洋介だろ、いったいおまえいつの時代の話してんだよ、おまえ、絶対、観てないよな。なんでつまんないうそつくんだよ」
僕は観念して白状することにした。
「実はテレビ持ってないんです・・・」
先輩はしばらく沈黙したあと、「わかった。きょうの午後の仕事は決まった。おまえのテレビを買いに行くぞ。もちろん、自分の給料で買えよな」
先輩はポツリといった。「おまえさ、社会で習わなかった?健康で文化的な最低限の生活ってさ・・・」
まあ、そろそろ年貢の納めときですかね・・・ひとりごちながら、野球中継を観ながらビールを飲むのも悪くないなと思うと、先輩を追う僕の足取りは少しだけ軽くなった気がした。
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「普通」ってなんだろう
「共生社会」っていう言葉、最近はやっていますよね。
耳にする機会が増えました。
どういう意味なんだろう、と思ってネットで調べてみたらこう書いてありました。
『誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である』
みんな違って、みんないい、みたいな考え方でしょうか。
ところで、私の子どもが小学生の頃、夏休みに区営のプールに連れて行ったことがあります。泳ぎ終わって小腹がすいて、お菓子を食べたいと言うので、「好きなの買っておいで」と500円玉を渡しました。喜んで売店に行った子どもが、こわばった顔をして固まっています。
どうしたのかと思って近づいてみると、売店のおじさんの片方の腕がなかったのです。しかも、肩から数センチ残っている断端を隠さずあらわにしていました。
子どもは全身でその衝撃を受け止めたようで、お菓子を買うこともできず、「ものすごくびっくりした。」と涙目になっていました。
それは本当に素直な反応ですよね。
子どもにとったら腕のない人は自分の常識の外なわけです。子どもの“普通”から大いに外れていたのです。
私は、こうした自然な感情を抑え込んで、みんな一緒、共生社会!と叫ぶのって、なんか無理があるなあと思うんです。
子どもたちって、学校でいやっていうほど“普通”とか“常識”を叩き込まれるんですね。
だから、そこから外れたものを受け入れがたいのは当然です。
ちょっと偉そうですけど、私は、本当に多様な在り方を素直に認めあうためには、そういう教育を改めるところからなんじゃないかな、と思うんです。
そもそも普通って、平均値みたいなイメージで、はっきりとした実態はないですよね。
だから、そこに近いような人もいれば遠いような人もいるけど、ぴったりそこに当てはまる人って、結構いないんじゃないでしょうか。
『常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う』
アインシュタインもそう言っています。

すでに“常識”とか“普通”に縛られてしまった私たちにできることは、まず、そういうフィルターにとらわれてものを見ているということを自覚すること。 そしてそのあとで、周りのすべてのものや人に、改めて、“初めまして”とあいさつすることじゃないかなあ、と思うのです。